市沢真吾 × 千浦僚 対談
    「第三の映画」談義
 

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過剰の先の、余白

 

吉川 俺は昨日初期プロットと人物設定と撮影台本を読み込んできたんですよ。もう『ジョギング渡り鳥』は5,6回全部スクリーンで観てDVDも観直してるけど、何回観てもわからない部分がたくさんあって、後から初期の資料や撮影台本を読んではじめて意味が成立することがたくさん。だからこれって、ほとんど洋画を字幕なしで観てるようなもんかって思った。
中川 
ああ、そうですね。
吉川 
観る人はモコモコ星人の言ってる事もまったくわからないわけだからね。半分は字幕なしでよくわからない言語の人たちを観てる、でも意味は通じてるということを、映画内で作り手は成立させてる。裏設定とか映画観ただけじゃわからないのに後から通じる、すごく腑に落ちるっていうのも、豊かさと呼べるか分からないけど、なるほどなって。
市沢 
例えば映画美学校で受講生が映像課題を提出したときに、「実はそういう裏設定があるんです」って言ったら、「いやそれは全然伝わってないから。伝えたいならそれを伝える手立てなり伏線なりを明示させましょう」と言いますし、実際、そうしなきゃいけない映画もあると思うんですよ。
千浦 
ある種の型を提示して教育という場で技術として映画を教えてるのが映画美学校のコンセプトで、講師がそれができてないよっていう時はある型に届く前段階だからね。今出てきた、『ジョギング渡り鳥』の分からなさは、はるかに過剰であるがゆえの分からなさだよね。映画が終わった後でも、映画のフレーム外でもその世界というか実在が続いてるって実感できたのはやっぱりそのはみってる、斜め上の感じがあるおかげだと思うんですけどね。豊かさというか、贅沢なことだっちゅうかね。
市沢 
この映画はどのカットも想像力ではちきれんばかりっていう印象でもないんですよね。でもスカスカってことでもない。箱にぎゅうぎゅうに詰まってるというよりも、はみ出してはみ出して、あるところはすげえ空いてるんだけど、でも全体としてはやっぱりむちゃくちゃはみ出してるみたいな。
千浦 
積み方、散らかし方が良い。
市沢 
そうなんですよね。観終わった後の印象に戻っちゃうんですけど、それが気になる面白さというか、気になる何かになってるんだろうな。今もそうですけど、言葉にならないことを言葉にしようとしてるので、「豊かさ」と言葉にすると少し違うような感覚もあって。とはいえ、いまこうやった話したような感覚、その感覚が分からないと観られない映画じゃないよね。
千浦 
うん。
市沢 
スカッと傑作っていうことじゃない。でも、家に帰る電車の中とか、電車の中だけじゃなくて、駅の改札階からホーム階へ行くエレベーターを待ってる十数秒間もこの映画の事をずーっと考えてる。それって「面白い」ってことでしょ。そういう類いの面白さであるってことを伝えておきたいなあと思いました。

 

 

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