市沢真吾 × 千浦僚 対談
    「第三の映画」談義
 

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「見る」を伝える

 

千浦 こういう映画こそ、キャッチーに売りたいよね。お客さんを獲得したい。そんな映画もあるって言いたい。言葉が流通することでまた映画が面白くなっていく話もしましたけど、最近感じるのが、世間の人は、悲観的に見ると、とにかく手早く理解したい、自分の思考を放棄したいみたいなところがあって。日本におけるポップな映画宣伝というか、それがとにかく伝播すればいい、伝わりさえすればいい、リーダビリティを持つほどいいというのがあって、それはそれでまた貧しいですよね。僕はこの映画に限らず、面白い映画について書く機会をもらった時にいつも感じることは、がんばって書いていろんな良いこと言えたと思うんだけど、それでもこぼれていく、もっと良いもんがあったなっていう、その気持ちはいつもあるんです。また、そういう思いを味わわせてくれる映画でもあるんですけどね、『ジョギング渡り鳥』も。
小田 
僕も今急に対談に参戦するんですけど。その、こぼれていくものという話で、僕らが最初に卓爾さんと作り始めた時に、いろんな人がいろんなアイディアを出したんですよ。例えば矢野くんがプテラノドン出てきたらどうですかとか。卓爾さんはそれを全部入れたんですよね。画面の中でも、卓爾さんはとにかく捨てない。何も捨てずに撮っていくことをしてるんだろうなとは思いますね。
市沢 
それを聞くとすごい希望が湧くんだけど、実際に「ああ、そうか。何も捨てないでシナリオがなくて撮っても良いんだ」って明日カメラをまわしてみたら、結構悲惨なことになるじゃないですか(笑)。いろんな意見を取り入れて俳優と一緒にまわしてみたらなんとかなるって、それ、この映画に出てくる優柔不断な自主映画作家のキャラクターそのまま。あの自主映画作家と卓爾さんの違いはなんなんでしょうか?
千浦 
それはだからもう、卓爾さんは散々経験した上でやってるってことなんじゃないですかね。
中川 
いろんな人がいろんなアイディアを出すのを聴くのが好き、と卓爾さんから聞いたことがあります。自分に取り入れてからのプロセスに無自覚なところもあるかもしれませんが、自覚的にやっているところもありそうですね。
千浦 
こないだ『にじ』の上映会があったじゃないですか。僕は90年代に、『にじ』を上映したときに卓爾さんに会ってるんです。吉川くんも一緒にバイトしてた大阪の扇町ミュージアムスクエアがPFFの会場で、その年の審査員が卓爾さんと矢口史靖さんだった。古澤(健)さんの8ミリが入選した年ですよ。そこから10年くらいして東京来てまた会うわけですけど。『ジョギング渡り鳥』観た時にすでに、昔観た『にじ』のこと思い出さずにいられなかったし。
中川 
やっぱりそうなんですね。
千浦 
共通点として思ったのは、平気でカメラを他人に委ねるじゃないですか。『にじ』だと、自分が出てるし、自分が写るために他人にカメラを渡す。はて、じゃあその時に、この映画っていったい誰のものなんだろうって思う。それはやっぱり卓爾さんの映画だし本人も映り続けるんだけど、写ることが目的でもなくて。偶然にも昨今の「自撮り」とすごく画面は似てるんだけど、あまりにも一生懸命すぎて、自分通り越して映画そのものを探求してるようなどんどん横ずれしていくようなところもあって。それは『ジョギング渡り鳥』にも共通するものなんじゃないかと思った。画面に写ってない人も登場人物というか、その映画にとって存在感がすごく感じられて、すごく大事な人なんだとか。結局映画をつくることがいろんな人をつないでいってるっていうか、そういうことは一貫してるんだなあと思って。『ジョギング渡り鳥』と『にじ』を並べてすごい納得がいきましたね。
市沢 
境界線をあいまいに、あなたと私の間、「余白」を強く欲する感じ。なにかこう、商業映画の環境、映画100年の歴史で培われてきたシステムを経た後にふっとその真逆のことをやってしまいたくなる感触。これはなんなのか。やっぱり自主映画を撮ってきた人特有のものなのかしら。「映画の別の可能性を探ってみたい」ってことが、形になって表れたのかもしれない。
中川 
繰り返し素材を観ている話を卓爾さんから聴く度に、撮影の時間はもう過ぎ去ってしまった時間だけど、あの時の時間がこのHDDの中で、画面の中で生きていて、その一人一人、ひとつひとつとずっと対話しているんだな、と感じました。
市沢 
そうですね。なんか物も人も同じように捉えているのかな。さっきの話に戻るけど、もし俳優に、「映画を建築にたとえるなら、シナリオは設計図。俳優とは建築物を組み立てるための部材である」って言った瞬間に、俳優は「俺ら部材かよ」って感じると思う。でも、映画を作りはじめた時って、シナリオなどの設計図を最初に作ると、俳優を部材のように観てしまうことがあるんですよ。でも当たり前だけどその俳優は生きているし、その人が生きてきた歴史もある。つまり、一人の人間が設計図の上で演じてるんですよということ。そこからさらに想像を広げて、「この映画に出てくるすべてのものは生きてるんだ、感情があるんだ」って思ったとすれば、画面に写ってる電柱とか家とか車とか全部に感情があって、それぞれ歴史を抱えていて、それによって映画が作られているんだとしたら、映像そのものが全部いとおしいって思えるだろうなと。HDDに入っている何ギガバイトかのMOVファイルですらも、クリックした後「おはよ」とか言ってそうだなあ、卓爾さん。
千浦 
言ってそうだよね。今聞いてて分かるなっていうのは、アニミズム的というか汎神論的だな、と。そういう映画ですよね。たぶんその逆は一神教的な映画で、またこれはPFFでの諏訪さんと卓爾さんのトークで言う所の「強い監督」と「弱い監督」、映画史上の有名な作家たちと自分たちの映画のアプローチを比較したときに出てきたことと通じてるところもあると思うんですけど。
無責任な観客の立場からいうと、俳優を部材として扱ったような映画にも面白いものはある気がして。僕も自主映画の現場を観たこともあるし、ちょっと作ったこともあるんですけど、非人間的なことをする快感もあるわけですよ。結局それは映画が、最終的にはライブ的なものじゃなくて、フィルムであれデジタルであれひとつのフィックスされた記録とかメディアとか作品に落とし込むから、一回そこで標本化する、物に変換して完成させるせいかもしれない。ある犠牲を払うことを強いることで統率されている映画作りもあると思うんですよね。普通に流通してるフィクションや、諏訪さん・卓爾さんの例えで出てきた「強い監督」が求心的に統率して作り上げてる世界の名作っていうのはそういうふうに作られたと思うんですよ。
あと、まあ話ずれるけど、映画に関して非人間的な楽しみ方は評論とかにもあってさ、酷いことを楽しそうに書く人とかいるじゃん。それってなんか犠牲を作り上げる祭りとしての映画を楽しむっていうのもあると思うんですよ。でもぐるっとまわって『ジョギング渡り鳥』に戻ると、そうじゃないんですよっていうことをやっぱりやってるわけですよね。あらゆる世界のつぶつぶ、ざらざらの手触りを楽しく享受するすべ、それは元々卓爾さんの中にあった資質で、それをここでまた全開でやってるし、みんなにも教えてくれてるところがあると思いますけどね。
市沢 
言葉にすると語弊があるかもですが、ただ一つの神を信じるっていうことの分かりやすさもありますよね。
千浦 
その方が形を作れますからね。
市沢 
「そこかしこに神がいる」よりも「ここに神がいる」っていうことの分かりやすさ。これを見ろって言われたほうが分かりやすい。これもあればそれもある、ここも見れるしそこも見れるよって言われると分かりにくい。それは「多面的である事は豊かなことだ」って伝える時の伝えづらさでもある。「これを見よ」って指定されたものしか見ていない人にとって、「他も見ていいんだよ」って言われても、見方が分からない。なんか世間がどんどんそうなっていってるんじゃないか?その感触が年々深まってる。
千浦 
視野が狭くなってる感はありますかね。世界の風通しが悪い感じはあるんですか?
中川 
市沢さんはストローブ=ユイレのチラシを観るたびに、芸術って何だろうって言ってますよね。分からなさをどう享受するか。
市沢 
これは自分の仕事と関係していて。「映画美学校の存在を、まだ知らない人たちに知らしめる」ということを意識せざるを得なくなったわけですよ、年々。うまいラーメンさえ作ってれば人が来てくれるわけではない、そのことをもう何年も前にみんなが分かっていて、じゃあどうやって道行く人にそれを良いって伝えるか。自分が面白いと思ってることと、そんなことなど全く関係なく生きてる人との隔たり。この隔たりを意識することが多くなって。悲観しているんじゃなくて、興味を持っているということなんですけどね。



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