市沢真吾 × 千浦僚 対談
    「第三の映画」談義
 

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技術とそれではないこと

 

中川 そういえば、さっき映画美学校の方針として話題に出た、きっちり技術を身につけたらその後はご自由にってのはアクターズ・コースも一緒です。特に1期、2期は2年間のコースなので。
千浦 
技術って、まばたきしないとか? マイケル・ケインがね、アメリカに行ったらジョン・ウェインにそうやって教えられたんだって。『映画の演技』で言ってた。あ、ちがう?
中川 
(笑)私持ってます、『映画の演技』。
千浦 
あれ超面白いですよね。西部劇の俳優は火薬でやられててみんな耳が悪いとか、全くどうでもいい映画に出たこととかを喜々として語るじゃない。その中で、まばたきしない自慢。俺だいぶ訓練したから、みたいな(笑)。
中川 
そういうのはしてないですけどね、まばたきとかは(笑)。ただ、技術の話の一方で教えられないものもあるよね、みたいなことはやっぱり同時に言ってました。最近鈴木卓爾≒平田オリザ説がちょっと私の中であって。オリザさんが書籍の中でも言っている、俳優をある意味で「駒」と捉えるような見え方と共通するところがあるのか、ないのか、と。駒というと非人間的に聞こえるけど、実際は俳優一人ひとりをじっくり見ていたからこそ生まれた映画で、現場で起きていたことを、私たちは「駒」とは真逆のこととして受け止めている。でも実際は「駒」的にも見えるのかもしれないみたいな、そのどっちにも見える感じは、オリザさんの作品から受ける印象とちょっと似てるのかなとも思っていて。
市沢 
二重性をはらんでいるか、見え方によっては全然その意図したところとは違うイメージで見られることがあるってこと?
中川 
はい、実際はこれまで話題に出た通り、物も人も同じに捉えたまま、映画でつないでいる、というだけなのかもしれないですけど。あと、よいお芝居は総じてそうかもしれませんが、さっき市沢さんが言ってた、作品という区切りで切り取られた時間の前にも後にもこの人たちが生きてる時間があるように感じられること。二人は全然出自が違うけど共通するところは結構あるのかな、と最近思ったりしてるんですけどね。
市沢 
映ってる俳優が愛おしく見えるだけじゃなくて、俳優の芝居がそうなってる、ってことですよね。俳優に魅力を感じるだけで成り立ってる映画はいっぱいある。でもそれだけじゃない。だからもっと違う感情が揺さぶられるんじゃないかと私も思ったんですよ。フレームがあるからと言って、自分が愛着を持ってるものを排除したくない。「良いよ、入ってって。みんな別に写って良いよ、同じだから」っていう。そうね、その感じなのかも。
千浦 
過去の商業的な映画の名作といわれるものでも俳優と監督が全然仲良くないとかさ、でも何度もその役者と監督は一緒に仕事しててまぎれもなく傑作、ということもあるわけですよね。繰り返しだけど、いろんなことを生贄のように映画に捧げて成立させるものもありますよね。作り手やひょっとしたら観客もその一方向に研ぎすまされた映画の発するパワーに拝跪したいっていう心理や、そういうものが名作として存在することもあると思うんですよ。それがまた映画がファシズムや宗教とも重なりうる、プロパガンダとしても機能しうることと結びついてると思うんですけど。でありながら一見何の役にも立たない映画もあり、またその素晴らしさもあるわけですよね。っていう言い方すらすでに二つに分けすぎて気持ち悪いんですけど。まあ『ジョギング渡り鳥』は後者の方の映画ですよね。一見何の役にも立たない、とっ散らかってる映画ですよね。
市沢 
撮影監督の中瀬慧くんはフィクション・コースの修了生ですけど、彼の作るフレーミングの感じは、卓爾さんのその汎神論的な感覚と、方向性としては違うんじゃないかって思うんですよね。彼の撮影した他の作品を観ると、非常にキャッチーで、ばしっとその画だけで決まるフレーミングを作って、画の印象がすごく残る人だなっていうイメージがあるんですよ。
川口 抽象的な言い方するとリリカルな画なんですよ。だから音がつけやすい。
市沢 
そうですね。リリカルな画面設計をしてるし、そういう意識がある人という認識があります。その中瀬くんと、境界線がないんだっていう意識の卓爾さんとの組み合わせがすごく面白くて。たまにハッとするような横移動とかもあるじゃないですか。やっぱり画として印象に残るようなショットが結構あるんです。トーチカみたいなのが写ってるとことか。
中川 
新井緑地建設の旧日本軍跡地ですね。
市沢 
そう、あれも画のフレームがすごく記憶に残るんですよね。その中でごちゃごちゃ人々が動いてる時に、何か化学変化が起きてるのかなって思いましたね。ふだんフラフラしてるんだけどふとした瞬間にバシッと決める人、みたいな。
中川 
それは明確にあると思います。ですがいかんせん、この映画はカメラやマイクが画面内に映り込むので、そもそもの技術的な要素が話題にのぼりづらいのかもな、と聞いてて思いました。
吉川 
そっちがインパクトでかすぎるからね。マイクがカメラに入ったり撮影してる人が常時入ったりっていうことは、やっぱりないっちゃないことなんで。まずそこに触れて、そこからフレーミングとかそっちの方に。俺は中瀬のカメラはすごくフィクション度が高いなと思ってて、だからこそやっぱりそこの中でモコモコ星人や、俳優たちが撮ったざらっとした画のざらつきがより際立つというか。そこの対比があるから、やっぱりあのフィクション度の高い彼のかっちりした画作りっていうのは良かったんじゃないのかなと思いますね。
千浦 
なるほどね。卓爾さんもそれを横ずらししたりとかね、ほかのものも重ねたりするっていうのもやってますよね。
吉川 
特に先行チラシの裏面にある、純子が屈伸してるシーン。あれ時間は、明け方の設定にしてるけどほんとは夕方。その前後にモコモコ星人がいっぱい出てきて、みんながカメラでお互い撮ってる流れとかは、やっぱりこのシーンでがちっと画が決まってるのと対照的で、すごい利いてるなって思ったけど。
市沢 
うん、そこが「余白のある豊かさ」だけではない、この映画の一筋縄では行かないところで。すべての境界線は崩れていくのだ、すべての映像は平等なのだ、みたいな感じではないね、中瀬くんのフレーミングは。
吉川 
中瀬は全然そこ目指してない。
市沢 
そう、目指してない。でも、卓爾さんと一緒にやることにより、出来た映画は、観客にとって、「余白」と「フレーミング」を同時に意識させられるものになる。


 

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