この対談は、2015年9月19日に第37回ぴあフィルムフェスティバル「招待部門作品、映画内映画」にて『ジョギング渡り鳥』がプレミア上映された後、鈴木卓爾監督、諏訪敦彦監督によって行われたアフタートークを採録したものです。 

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対談をする諏訪敦彦監督(左)と鈴木卓爾監督(右)

第3回

 

諏訪:それともう一つ素晴らしいなと思うのは、俳優の人たちが、やっぱりいいんです。

 

卓爾:ああ。

 

諏訪:それは何が違うかって、例えばさっきキャスティングの話が出ましたが、「普通のフィクションだと、「はい、この役は誰」っていう風にキャスティングやオーディションで、監督側が選ぶわけじゃないですか。この人がいいかな、あの人がいいかな、って。

 

卓爾:ええ、ええ。

 

諏訪:そういう関係で作られてく映画っていうのはほとんど、監督の言うことを従順に聞く人たちの行為が映ってるだけなんですよ。こうしろ、と言われたからはい、ってやるしかないっていうね。

 

卓爾:うん、うん。

 

諏訪:でも『ジョギング渡り鳥』は、そうじゃないですよね。何かに従ってる人がいない感じがしました。

 

卓爾:うん、うん。どうしても「こうして」とオーダーするとみんなそうしてしまいますよね。俳優やってる時というのは。

 

諏訪:してしまいますよね。

 

卓爾:僕も俳優やってる時に言われたら従いますもん。

 

諏訪:はい、ってね(笑)。

 

卓爾:ええ。意見言うか言わないかも大人として考えちゃうというか、やっぱりそこは、誰も見ていない世界では決してないし、言うことを聞いてしまいますよね。

 

諏訪:特にあの、カメラ演技、撮影演技……。

 

卓爾:撮影芝居、と舞台挨拶でも言いましたね。

 

諏訪:その言葉もなかなか素晴らしいんですけど、この撮影芝居、録音芝居がいいですよね。

 

卓爾:撮影芝居と録音芝居と言うけれど、みんなはお互いを撮ることをしているだけ。それは芝居の中なので。中にはやっぱり数人、天才がいるなあって(笑)。

 

諏訪:演技でやってるわけでしょ? ああやってマイク振ってるのも。

 

卓爾:そうです。

 

諏訪:あれが素晴らしいですよね。

 

卓爾:カメラマンの友人に聞くと「そういうのは俺は撮れないんだよ」って言うんですよ。なぜって聞くと「だってプロだから」って。

 

諏訪:ああ。

 

卓爾:例えば今喋ってる僕達の間にカメラは割って入っちゃいけないって言われてるけど、もうウロウロしてほしいんですよね。

 

諏訪:ええ。

 

卓爾:ウロウロしても僕達は揺るぎないし……。カメラマンはそういう人でいて欲しいというのがあって、そこがすごく面白かったんですよね。今回。

 

諏訪:悪しきプロっていうのは、本来「人間である」ってことに戻れなくなっちゃった人。

 

卓爾:ああ。「人間」て何なんだって話もあるけど(笑)。

 

諏訪:(笑)。普通の人、普通の感覚。本来、カメラもってる人はどこに行ってもいいわけでしょ?どっから撮ってもいいわけですよね。この撮影芝居では、こんなとこから撮ってんだとか、カメラ転んじゃったとか、そんなのもありじゃないですか。

 

卓爾:ええ。もう、その転んだのも含めてありっていう。

 

諏訪:もちろん、それができなくなることがプロになることでもある訳じゃないですか。これをやってはいけない、これを普通やらない、っていう。

 

卓爾:そうです、ええ。

 

諏訪:でも、いつでも、その「普通」はやらないことに立ち返れるっていうスピリットが、本当はプロには必要なんじゃないかな、と思いますよね。そこまで本当に大胆になれるかどうか、っていうかね。

 

卓爾:ただやっぱり今回、中瀬慧というカメラマンが、客観的なものを全て撮ってるんですが。

 

諏訪:良かったと思いますよ。

 

卓爾:あれは、いわば誰でも撮れるわけではない仕事なんですね。

 

諏訪:ええ。

 

卓爾:中瀬がそのチョイスをしてくれたから、撮影芝居では最前線でアップを拾っていく、あるいは時にはそれが入れ替わることもできた。俳優部とスタッフというのが完全に切り離されていない。

 

諏訪:そこが素晴らしい。

 

卓爾:今回の現場は、すごく面白い作戦でその効果がでたなって思ってます。

 

 

諏訪:僕ね、最近「こども映画教室」っていうのをやってて、毎年一回。

 

卓爾:金沢で。

 

諏訪:小学校1年生から6年生まででチームつくって、3日間で映画作るんですよ。初めて会って、お話考えながら撮影して、編集して上映までやるんです。これがね、混沌としてて面白い。

 

卓爾:むちゃくちゃですよね。

 

諏訪:僕はね、むちゃくちゃなものをもっとむちゃくちゃにするんですけど、役割を一切決めない。監督は誰とかカメラマンは誰とか一切教えないで、みんなでよ く話し合ってやってね、っていうとぐちゃぐちゃになるんですよ。なんとなく全体で物事を解決していくのね。役割を教えていく映画教室もあるだろうけど、僕の教室では、ぐちゃぐちゃになってやっていく。たぶん今回もそうですよね? みんなでぐちゃぐちゃになって、合宿とか、食事とか。

 

卓爾:生活もみんなで、自分らでやってく。

 

諏訪:日本だと、役者さんは凄く馬鹿丁寧に扱われちゃうけど、何でもやる、色んなことをやる。その中で生まれてくる関係は、役割分担じゃないから、人間関係、なんですよね。

 

卓爾:うん。

 

諏訪:その人間関係って、友達とかそういうのに近いじゃないですか。

 

卓爾:役割に隠れられないので逆にシビアかなあというのも、あったりはしたんですけどね。

 

諏訪:そうですよね。それってなんか、かけがえがないことだなあって思ったんですよ。

 

卓爾:ええ。

 

諏訪:平田オリザさんは演劇をやるじゃないですか、こどもと。

 

卓爾:はい。

 

諏訪:で、子どもたちと映画やることに何の意味があるんだろう、なぜ映画なんだろうって問いかけが僕達の中にあって。共同作業ができるのは演劇もそうだし、何でも交換可能なんだけど、映画にしかできないことって何なんだろうって。

 

卓爾:何なんでしょうね。

 

諏訪:ある大学の先生がいっていたのだけど、今の暫定的な答えとしては、それは代替不可能性ってことと非常に深く関わってる。代替不可能性って何かと言ったら、交換できないこと。

 

卓爾:ああ。

 

諏訪:かけがえがないこと。その子は、その子でしかないってことが映画には映っちゃうってことなんですよ。

 

卓爾:ええ、そうです。

 

諏訪:あるいは、映画に関わることでそういうことが起きちゃう。俳優は、やっぱりまずはそのことを生きてるじゃないですか。それは交換できないことになんな きゃいけない。でもオーディションとかで監督が選ぶということは交換可能になるんですよ、この人にするか、この人にするかって。

 

卓爾:選ぶ、選べる。選んでしまう。

 

諏訪:その人はその人でしかないってことが映るのが、映画の凄さなんじゃないかなって。

 

卓爾:うん。

 

諏訪:なんかね。今日は拝見しながらね、全然関係ないけどペドロ・コスタのこと思い出して。

 

卓爾:あ、そうですか。

 

諏 訪:ペドロ・コスタがこんなことを言ってたんです。例えば、今あなたが映画を撮っていて、カメラを置く。その前にトム・クルーズが立っている。トム・クルーズのクローズアップを撮る。その背景に200人くらいエキストラがいる。さあいくぞ、本番!というときに、エキストラの一人が気分が悪くなって、病気になって倒れた。あなたは撮影をやめますか、と。やめないですよね。交換可能だから誰か代わるって、通りますよね。彼は、僕はそのときに撮影をストップしなきゃならないような映画を撮っているって言ったのね。つまり、どんな人も交換不可能な関係においてしか映画を撮ってないんだ、と。この映画を見て、そういうことを感じたのね。思い出したというか。

 

卓爾:はい。いわば映画の俳優の学校で逆のことをやってるというか、プロになるためのなにかはまったく教えられず、逆のことをやって……。

 

 

(2015年9月19日、第37回PFF プレミア上映時対談より)

 


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