特別寄稿文
      『ジョギング渡り鳥』について
井川耕一郎(脚本家、映画監督/『色道四十八手 たからぶね』)

 

 『ジョギング渡り鳥』では、映画美学校アクターズコースの一期生がとある地方都市に住む人間と宇宙人(モコモコ星人というらしい)の二役を演じているのだけれども、その演じ方にはちがいがあるように感じられた。人間の場合には、撮影前にある程度決めたキャラクターに沿って演技をしているのだろう。しかし、モコモコ星人については、そういう基本設定を人間のときほどきちんと決めないまま、撮影に入っているように見えた。だから、監督の鈴木卓爾と演じるアクターズコース一期生にとって、『ジョギング渡り鳥』を撮ることは、モコモコ星人にどのような意味があるのかを探る作業になったのではないだろうか。

 モコモコ星人の初登場シーンは円盤の中で、彼らはパントマイムのようなことをしている。これには見覚えがあった。アクターズコースの授業で行っているビューポイントだ。ビューポイントとは、舞台空間に数人が上がり、他者への反応をくりかえしながら、なおかつ観客の視点から見て面白い絵を構成するように即興的に身体を動かす練習と言ったらいいだろうか。授業見学のときに思ったのは、これは木村敏ならゾーエーと呼ぶような生命、大文字の生命が個別化に向かう過程を演じているようなものだなということだった。円盤内でのモコモコ星人にも同じことを感じた。彼らは宇宙人というより個別化以前の生命を演じようとしているように見えた。

 その後、モコモコ星人の円盤は烏の襲撃を受けて地方都市に落下。試写のときに配られた資料によると、「母線が壊れ帰れなくなった彼らは、とある町の人々をカメラとマイクで観察しはじめた」とあるけれども、そうなのだろうか。人間にはモコモコ星人が見えないという設定を口実にして、モコモコ星人を演じるアクターズコース生は人間を演じる同期生との距離を思い切りつめて演技を妨害する悪ふざけすれすれの行為をしているように見えた(しかし、この悪ふざけ、私は嫌いではない)。モコモコ星人のカメラ映像は観察記録というより、悪ふざけの中でたまたま撮れてしまった映像という感じだ。なので、その映像には、普通に考えれば、NGと判断すべきような鈴木卓爾たちスタッフが映りこんでしまっているカットも含まれている。

 そんなモコモコ星人のあり方に変化が起きるのは、映画が一時間ほど経過したあたりだろうか。川沿いのジョギングコースで、元オリンピック女子マラソンの金メダリストの留山羽位菜(とめやま・うくらいな)がジョギングする人たちにお茶をふるまっているシーン。羽位菜の「わたし、こうやってみんなでお茶を飲むのが好きなんですよ。死ぬまでずっとこうしていたいんです」という言葉を聞きながら、人々はお茶を飲んでいるのだけれども、その中にいつの間にか女性のモコモコ星人(演じるのは中川ゆかり)がまぎれこんで、カップを両手で包みこむようにして持ち、川の流れに耳を傾けながら黙って微笑んでいるのだ。このモコモコ星人の顔のアップが実に素晴らしい。その顔には、「わたしは今ここにいる」という単純な喜びが満ちあふれている。

 だが、「今ここ」とはつきつめると何なのだろうか? それは二重の意味を持っているだろう。一つは、ジョギングの途中でお茶を飲んで休憩する場としての「今ここ」。そして、もう一つは撮影現場としての「今ここ」。モコモコ星人のアップには演技から微妙にずれる何かがある。まるで撮影の合間のほっとした瞬間を偶然とらえたような生々しい感じがあるのだ。(ちなみに、こんな感想が浮かんでくるのは、モコモコ星人たちが撮った映像の中に何度か鈴木卓爾たちスタッフが映りこむということがあったからだろう)

 人間たちにまじってモコモコ星人がお茶を飲むカットのちょっと後に来るのが、羽位菜(演じるのは永山由里恵)が一人きりで自宅にいるシーンだ。走るのをやめてしまった今の自分のあり方にひそかに悩んでいるらしい羽位菜はスマホから流れる「歌を忘れたカナリヤ」のメロディーをくりかえし聞き、口ずさむ。そんな彼女の後ろ姿をモコモコ星人のカメラがとらえるのだけれど、映像はそれまでの結果的にたまたま撮れてしまったものとは質的にまったく異なっている。下手くそなズームなのだが、対象を凝視するカメラになっているのだ。自覚的に映画を撮りだした徴がカットの中から読み取れる。

 やがてモコモコ星人は人間だけでなく自分たちにもカメラを向けるようになる。すると、また変化が起きる。夜、自主映画に出演している背名山真美貴(せなやま・まみき。演じるのは古内啓子)が古本屋を訪れるシーン。真美貴は店主の部暮路寿康(べくれる・ひさやす。演じるのは小田原直也)に自分の気持ちを伝えようとするのだが、そこに羽位菜が客としてやって来る。真美貴は寿康の羽位菜に対する思いに気づいたのか、古本屋から出て行ってしまう。そのあとに来るのが、路上にしゃがみこんでマイクの先を口に押しあてて、カメラをじっと見つめる真美貴そっくりのモコモコ星人の顔のアップなのだ。このアップにははっとさせられる。その顔はもうモコモコ星人の顔でない。真美貴の顔である。このカットには演技の始まりとでも呼ぶべきものが映っている。

 地上に降り立ったモコモコ星人たちは、まずは撮影現場を発見し、次にカメラで撮ることを、そして演技することを発見し、実践しだした。となると、その姿はなぜ彼らは集団で映画を撮るのかという問をもたらすだろう(この問はモコモコ星人だけでなく、鈴木卓爾たちスタッフとアクターズコース生たちにも向けられている)。だが、この問は、なぜ人々は朝になると集まりジョギングをするのかという問と同じくらい、答えるのが実は難しい。というのも、私たちの中には、本当の答を忘れているのではないかという不安がうっすらとあるからだ。

 答を知るものがどこにいるかを示すような手がかりはいくつかある。たとえば、羽位菜が口ずさむ「歌を忘れたカナリヤ」の後半の歌詞--「歌を忘れたカナリヤは象牙の舟に銀のかい 月夜の海に浮かべれば忘れた歌を思い出す」がそうだ。おそらく、「月夜の海」とは個別化以前の生命のようなものだろう。とはいえ、群れをなして飛ぶ渡り鳥なら、個別化以前の生命をじかに感じ取ることができるかもしれないが、人間の感度はそれほどよくない。結局、私たちはなぜこんなことをしてしまうのかと自問しながら同じことをくりかえすしかないだろう。

 

 『ジョギング渡り鳥』のラストでは、川沿いのジョギングコースでスタッフ・キャストがごちゃまぜになって映る中、羽位菜を演じる永山由里恵がカチンコを高く掲げて打つ。それは『ジョギング渡り鳥』の終わりを告げると同時に、新たな映画作りへの合図にもなっている。そして、その新たな実践への合図は観客である私たちにも向けられている。

 

 

 引用元:プロジェクトINAZUMA BLOG